昭和40年12月18日 朝の御理解
いよいよ痛感することですけれども、こんなに見易いことはなく、こんなに難しいことはなく、どう言葉で表現してよいか分からない。それが、実を言うたらお取次の実体だという風に思うですね。成程、お取次を願われる皆さんが、教祖生神金光大神のお取次を頂いておるという気持ちで、お取次を願われる様になられたらいいわけなんですけれども、やはり、そこには、ここで申しますと大坪総一郎という風にしか見えませんから、教祖の神様には皆さん見えない。
私としても又、教祖の神様の金光様の、いわばお手がわりと許されておりましても、やはりの実体は大坪総一郎でありますから、なかなかその辺の処が難しい。ですから最近私思うことは、これはお取次をさして頂くものは非情にならなければいけない。非情、情が無いと書いてある。成程ある方が、お取次の先生がわら人形のようにならなければという様なことを、聞かせて頂いたことがあるですけれども。
本当にこのいわゆる無情ですかね。非情、とても人が死のうが、生ろうがそんなことは、ひとつひとつ心を使わないで済む様なと 同時に又有情でなからなければならない。ね どの様なその点例えば、三代金光様なんかのお取次を願わせて頂いておって感じることですけれども、本当にどんな難儀な問題を持っていっても、表情ひとつおかえにならん。只、ハイハイと仰るかと思うと、お婆さんの様な方。
お取次をなさっておられたお婆さん。お取次を願っとる者と、お取次をなさってる金光様が、もう大声を上げて笑いながら、お取次をなさっとる事もある。かと思うともう腹かいとられるじゃろうかと、いう様に厳しいお態度で、お取次下さって時もある。非情と有情と混然としておると、言った様なのが本当の事でしょう、とこう思うですね。何故私が、この非情ならなければならないかと、いうと、私の情というものを使ったんでは、おかげが頂かれん。
例えて申しますなら、牛馬の事に至まで実意を持って願えとこう仰る。だから何事でもどうぞよろしくお願いを致しますと、そうお願いをなさる様な場合は、私がそれが非情であってはならん。やっぱりその願いというものを一辺私の心にこなさしてもろうて、それが苦しい事であるならば、苦しかろうと痛い事であるなら痛かろうと、自分の身に一辺引き寄するというか引き受けて、その皆さんの願いというものをです、神様へお取次をさせて頂く。ですからその実感として私の事として神様へ交流していく。
そこに、おかげの頂けることになるわけですけれども、かというて又、そんなら、まあ重体の病人とこう申します。どうぞ先生、今度一辺だけ助けてくださいというてやって来るですね。もう、今度一辺だけは助けて頂きたいとこういう風に願ごうてみえる。そういう時に、私がイチイチ、ハアーほんなこと助けてもらいたこうあんなさろうというて、情を使こうたら、この人は助からんという事実がある。
もう愈々医者も見放したと、もう普通からいうたら助かるはずが無いのがです。それでもやっぱり助けて頂きたいという時には、やはり私はですね。いうならこちらの方へま々よというて、死んでもよかという気になんなさいと言えれる位な無情にならなければ、非情にならなければおかげは受けられんです。この辺難しいでしょうがですから。そんならどうでんこうでんいっちょ助けて頂くごとお願いしょうと、私が、言わねばならないような場合に、助かった事がないですね。
助かった事がないて、助からないですね。というてやはりそれを、教祖の神様は子供が、例えば病気をしておる。枕元におってから介抱しとったからというて、助かる者はたすかる。助からん者は助からん枕元に居ったからというて、おかげになるもんじゃない。そういう時には、その子供がしんしょう言うて親の言う事を聞かんで、もうこの子にはかまわんぞという様な時があろうが、子供がしんしょういうて親の言う事を聞かん時に、もう、かまわんぞという様な気持ちで神に縋ってやれと仰る。
これなんかは無情になる。いよいよの時には、ままよという心になれよと仰る。ままよとは死んでもままよのことぞと仰る。十二分の徳を受けようと思えばです。ままよという心になれよ、ままよとは死んでもままよのことぞ、とそこで、私がおかげを受けておるということはですね。これが皆さんの場合出来ない。私が、なかなか、どうぞ助けて下さいという時には、私も一緒に助けて下さいちいよる。
やっぱり、いよいよそれではいけんと分かりながら、それをそう無下にいいきらん、ここんところがです、取次ぐ者も取次がれる者も本気で信心しなければならんということをです実感するです。そんなら、これがです皆さんでなくて、これが私の肉親であるといたします。私の家内であり、私の子供であるという時です。もうこれはもう、もう本当に自分ながらたまがるぐらいに非情になれることです。
本当に、先生は無情だと、皆さんがご覧になれるように無情になれるということです。これは、私がここ十五年間、家族の者の死ぬるの生きるのといった時に、もう本当にそういう気持ちが、お取次ぎが出来る。ですから私はもう一押し、これは皆さんの場合も、これだけの事が出けれる様に、最近非情になることに、非情にここ特に二、三日、四、五日つとめとります。
ところが、どちらかと申しますと、私が、その感情過多の方です。どっちかというと情の多い過ぎるほうです。その多い過ぎる私がです、肉親の者に対しては非情になれるということです。これは、私は普通で申しますと、これは、私は、ある先生の話を聞いた事があるです。ね ある先生、自分のお子さんが夜中に、もう危篤状態になられた。一晩中ご神前に出てご祈念をされた。
そして、ふっと自分に気付かれたこと、ハアー、これがほんに信者の子供という時に、これだけ一生懸命になれるだろうかと思われた。相済まんことだと、本当にお取次ぎ者としてから、こんなことでは相済まんことだという気になったという様なお話を聞いたことがある。ご結界に奉仕しておられた。それは、又別の先生の話し、これは先生がお説教で話されたことですから本当でしょう。
奥さんが子供が悪い、具合が悪いといってから、その、ご結界にもう非情に、もう急を告げておる状態のことをお願いにこられた。もう分秒を争う様に、ひどい時にご結界に奉仕しとったけれども、そのまま裸足で表に飛び出して、病院にお医者さんを呼びに行ったという話し、これなんかは、これが大体は普通ですね。自分の子供じゃから、子供のことじゃから一晩中でもご祈念する。
自分の子供のこととなったらご結界を、いわば盤石の様にしておらなければならんその自分が、そこを飛び出して裸足で病院に駆け込んだという。これは人情なんです。ところが、その点の処は、私はおかげを頂いてるです。ま これから先どうか分かりません、けれども、この十五年の間の様々なことがありましたけれども、これだけは自分ながらおかげを受けとる。
それは何故かというと、私自身がままよという心になれれるからだと思うんです。例えば長男が目に竹が刺さった時なんかでも、盲になってもいいとこう思ってるです。いよいよのところは、子供が具合が悪いと、というてもその時、私は死んでもよかと思いよるです心の中に。ところが、これが信者さんの場合になるとです。それこそ私の方が動揺する。どうぞ助けて下さいとこういうとこになってくる時にです。
やはりどうぞ目であるならば開眼のおかげ頂きます様にであり、命の事であるならば、どうぞ命を助けて下さいということになる。いわゆる、私が情を使うわけなんです。これは本当に、これは赤の他人の皆さんの場合でもです。ここんところに情を使わんで済む私にせらせて頂かなければ、本当のお取次ぎはできん、最近それを思います。ある方が税金のことでお願いにまいりました。
もういうなら、椛目の優等生といわれるくらいに信心も行き届いた信心もでけられます。そして、そのまあいうならばです、出来るだけごまかけでける様なら、ごまかけでける様にしておかげを頂きたいという願いをもっておる。それをもし私ならば、もし私ならばです、そういう誤魔化しはしない、そしてそんならこの人にです私の思うておる様な、信心さして頂いて何事にも信心になれ、だから誤魔化すことがいるですか。
当たり前の申告して当たり前出しなさい、そしてそんなら、家蔵財産取り上げられることになってもいいじゃないですか、こう非情にでられるんです。私の場合は、これが自分の場合なら、家蔵財産取られたってかまわんという気持ちがあるわけです。そういう様な場合がたくさんあるですがね。ま 例えて、これは例ですよ、こんなことはないです、難儀をしとります。ね
お金を拾って来ます、私は、私がもしそういう来たら、恐らくそれは神様があなたに下さったんだから頂いときなさいというに違いないです。今ぐらいの信心だったら、これがです、今度は、私の子供が拾うて来たとします。もう本当に、このお金があれば私一家が助かるといった様な場合でも、それは、警察に届けなさいといえれるでしょう。この辺のところ皆さんがですね。
私は本当に信心を進めて下さって分からなければならん。お取次ぎというものは、そんなに微妙なものだということ、私が情なしではお取次ぎがでけず、本当にその人の身になってお取次ぎをさしてもらわなければ、おかげ頂けないこともあるし、そういう気持ちになったらおかげ頂けない事もあるし、非情にならなければ、それが信者さんの場合には非情になれず、家族の者の場合には非情になれるというところにです。
これを、もう一段私の信心が進められて、皆さんの場合でも、私が非情になれれる様なです、おかげを頂かなければならん。まあ私がこう申しましたことをです。皆さんが分かったか分からないか知らんに致しましても、私はそういう今複雑な気持ちなんです。そこでここだけは分かってほしいのです。皆さんの信心が段々進められてです。どういう難儀な問題に直面されましてもです。
どうぞ、これも、これ一辺だけは助けて下さいといわんで済むだけの信心にならなければならないということです。皆さん自身がです、皆さん自身がどうでもよいという気持ちになる信心なんです。只、お取次ぎは願うけれどもです右にならなければならん、左にならなければならんという様なものを捨て切って、お取次ぎを願えれる信心にならなければならないということです。
それだって、私がいわゆる本当の非情にならなくてもです、そのままお取次ぎさして頂くのですからおかげになるのです。いわゆるいうならばです。皆さん自身がです子供が病気している時枕元にへばりついておる様なことではなくてです。もうそちらほっといて子供がしんしょういう時に、かまわんぞという気持ちになって、神様に縋ってと仰る。そういう気持ちに皆さんがなられるところまで、信心を高められる事です。
いよいよの時にはです。どうぞ、助けてくださいではなくてです。修行もしますお参りも致します、けれどもこうならなければならん、おかげではないという様なです、思いは捨ててです。いわゆる、これで一徳受けるぞと、このことによって一つ一徳受けさせて頂くぞという気持ちでです。いわゆる、ままよという心になってお縋りできるだけの信心に、皆さんがなられる以外にないです。
同時に私も本当の意味でです。今、そこんところに取り組んでおります。私は、だから非情になり切れたらです。それは、まあ素晴らしいでしょうけれども ね。ここんところは皆さんもご承知の様に、私は、どちらかというと、その情の過多の方です。感情過多です。情がだぶだぶしとる自分だ思うことがあるです。だから、その情によって皆さんが情の中に包まれた様な。おかげを受けることがあるけれどもです。
その情のために助からない場合があるです。ほんなこと助けてもらおごとあんなさろうと、この情を使うた時にはもういかんです。ですから、皆さん自身がです、信心を一段と進めさせて頂いてです。いわゆる、ままよという心にならせて頂けれる。ままよとは、死んでもままよのことぞ、と 仰られる様なところをです。自分の信心をそういうところに切り開いていけれるだけの信心。
そこに十二分の徳を受けることがでけるのです。その辺のところはやはり、だからある意味合において、あいよかけよだと思うですね。取次さしてもらう者願う者、私は本当にもう情は、私はずそうとしても、私自身供えておるものをもっとります。これは自分ながらそう思います。ですからその情をです場合によっては、もう一辺にかなぐり捨てれる。いわゆる、三代金光様ではないですけども、
それこそ、怒っておられるであろうかという様な、厳しいお態度でお取次ぎなさっとられるかと思うと、その次には、それこそ、柔和な柔和な、本当に子供でも縋って行きたい様なご様子でお取次ぎなさっとられるです。あれは、感情がありなさらんから、あれがお出来になるのじゃなかろうかと、私は思うです。私はもう本当に非情にならせて頂こう。非情にならなければ本当のお取次ぎはでけないという様に。
最近はそこんところへ感じておるわけなんです。例えば税金の事でもそうでしょうが、只今申しますどうぞいくらかでも少なかごと、いくらかでも少なかひとというて願う。それを私がよけ出すほどいいじゃんのと、かえってお国のためになるとだけん。うんとだされる人、正直出さんのというたら皆さんが、もう先生にお願いせんちいうごとなるじゃろう。ところが、皆さん自身がその気になられたらです。
私はとてもお取次ぎがしよかろうとそこにはです、成程家蔵財産とられる様なことに、ひょっとすりゃなるかも分らんけれども、それによって十二分の徳を受けられたら、家蔵財産ぐらいなことじゃない様なおかげになってくるでしょう。ここんところはですね、実にデリケートなものだと思うです。私は今日申しましたこと、分かられたかどうか分かりませんけれどもとにかく、皆さん自身の信心が一段と高められて。
例えば、そんなら泥棒に入られて物を取られた。どうぞ出てきます様にと言ってお願いをするか、いわば、出てきます様にという様な、同じ勢いを持ってです。お取り払いを頂いてありがたしと、皆さんがお礼を申し上げられる様な気持ちでです。お取次ぎがでけられる様になる時です。私の、いわば私が非情にならんでも、非情になったと同じお取次ぎがでけるということ。
そこには、いわゆるままよという心であり、子供がしんしょういう時にかまわんぞという心であり、そこに助かる道が本当の意味での助かる道がです、開けてくる分けなんですね。大変難しいことを申しました。とうぞひとつ工夫してみて下さい、そして一段と信心を進めて、そこまでいかなければほんなこつじゃないと思います。
どうぞ。